白い万両
昨日は扇雀さんの追悼なのに、仁左衛門さんのことばかり書いてしまった(ー ー;)
武智鉄二の新しい解釈の演出で見事に花開いた中村扇雀と坂東鶴之助。
道頓堀の古い文楽座で見たような気がする。
扇雀さんは人気が出て東宝映画へ行き、大阪での歌舞伎には出なくなってしまった。
(60年以上昔の話)
私が初めて歌舞伎を母と一緒に見たのは千日前の歌舞伎座だった。(私は高校生)
立派な劇場で、晴れやかな舞台が眩しくてすぐに歌舞伎のファンになったのだった。
母はずっと歌舞伎ファンだったけれど、子育てが終わって余裕が出来たので芝居見物となったのだろう。
「歌舞伎」という雑誌も取っていて役者のことを良く知っていた。
大阪で一番ええ役者はんは初代中村鴈治郎(藤十郎のお祖父さん)やでと言っていた。
日本舞踊を習わされたのも母の趣味が高じてで、私は嫌々だったから、ものにならなかった。
ついでに長唄の三味線も習わされたのだ〜
(本当は西洋かぶれだったからピアノが習いたかったのに)
昨日も書いたけど、大阪で歌舞伎が振るわなくなって大きな歌舞伎座は要らない、とお金儲けばっかり考える人たちが、新歌舞伎座を難波の御堂筋の西側に建てた。
派手なデザインで。
1953年のことで、私は何度か足を運んだ。
新しい歌舞伎座では客席で食事はしてはならない、幕間(まくあい)に食堂で・・・というシステムになった。
これは窮屈でせわしない。
いよいよ歌舞伎見物が廃れる。
案の定この新歌舞伎座は演歌歌手の歌と芝居の大衆演芸専門になった。
これはこれで賑わったのだが。
では歌舞伎はどこで演じるか?
道頓堀の「中座」しかなかったようだ。
私はその後結婚して芝居など観られなくなってしまった。
大分経ってから、兄が「上方歌舞伎を守る会」を応援していてチケットをくれた。
「中座」で嫂と姪のAちゃんと久しぶりに歌舞伎を観た!!
また歌舞伎熱が再燃して時々観に行くようになった。
この時の連れは当時住んでいたマンションのお隣の住人Mさん。
彼女は宝塚も民芸も歌舞伎も海外のオーケストラ来日公演も、ご主人に子守りをさせてホイホイ行く人だった。
その後、映画館だった「松竹座」が歌舞伎専門の劇場になって嬉しかった。
ここでは幕間にお弁当を広げても良いお酒を飲んでも良い昔の歌舞伎見物に戻していた。ただし幕間だけ。
私は夫が暇になってから一緒に歌舞伎を再々観に行った。
夫は芝居が好きなのだった。
歌舞伎だけではなく、新劇も、吉本も、お能も、ミュージカルも。
仁左衛門目当てに、二人いそいそと難波でお弁当とお酒を買って「松竹座」に通った。
1幕目が終わったら、お弁当を膝の上に広げる。
お酒を楽しむ。
2幕目は大抵所作事(しょさごと)で賑やかで目を見張るような演出と華やかな舞台だから、酔っ払った・・・と寝てはいられない。
そうして舞台を楽しんだのだった。
夫が天国へ行ってしまった今は、歌舞伎好きな高校の時の友達と一緒に行っている。
歌舞伎だけは一人で観ても面白く無い。
わ〜わ〜歓声を上げながら「ちょっと誰それさんや」とか「わ〜綺麗やんか」とか「えっもう早変わりしはったん?」とか言い合える相手が要るのだ。
ところがである。
最近はだんだん大きな声は出せなくなった。
しゃべって観ていると、後ろから係りの人が「お静かにお願いします」とわざわざ言いに来るでは無いか?
私たちの声はでかい?
歌舞伎は静かに芸術を鑑賞するものになってしまった。
新劇みたいに。
大向こうの掛け声は許せても、おばあさんたちの喋りはあかんのだ。
庶民の娯楽じゃ無くなったんだ。
これは悲しい・・・。
歌舞伎は大阪庶民の娯楽だったのだ。
ちょっと良い着物を着て、晴れがましい芝居小屋で、美味しいお弁当を食べて、美しい役者の姿を目で楽しんで、浮世の憂さを晴らしたのだった。
さて、10年ほど前に難波の新歌舞伎座も無くなって、上六のビルの6階に小さな新歌舞伎座が出来た。
杮落し(こけらおとし)に友達と4人で歌舞伎を見たが、全体が小さくて窮屈で、娘の頃最初に観た歌舞伎の華やかさには程遠いものであった。
今日も又長々と文句三昧のブログになってしまった。