a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

おとしだま

高校の同期生で長い間の友人だった「ゆーさん」の通夜に列席する。

長年の友人だった同期生が20人ほど出てきた。女性は5人。

泣いている子も居た。

ゆーさんは親切で義理堅い人だった。10年前うちの夫の前夜式に出てくれた。卒業した大学の先輩という理由で親しみを覚えてくれたみたいだった。

 

出かける時、駅まで歩いて喉が乾いたので自販機でお茶を買う。

130円。

100円玉を入れて後30円が見つからないので50円玉を入れた。

電車が近づいているようで、ちんちんと踏切の音が聞こえる。

慌てて50円玉が上手く入らず転がって落ちてしまった。

探しても見つからない。

焦った。

100円をもう一つ入れてお茶を出す。お釣りをとる。

電車を気にしながらもう一度探したが50円玉はどこにも転がっていなかった。

 

これはお正月から50円玉の落とし玉だ〜☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

年賀状あれこれ

年賀状が1枚戻ってきた。

昔近所に住んでいて小学校で1年先輩だった人。

ある日道で出会って「T小学校に通ってたでしょう?」と声をかけてくださって以来のお付き合いだった。

お互いの子供が同じ小学校に通っていて何かと助けてもらった。

私が病気の時に娘のお弁当を作ってくれたり、一緒にプールに連れて行ってくれたり。

ずっとお付き合いが続いていたのだけど。

 

「住所に見当たりません」と書いて戻ってきた。

老人施設に入ってしまったのか?

住所変更手続きが出来ないほど弱ったのか、もしくは既に亡くなってしまったのか?

ご主人は5年ほど前に他界されている。

男の子2人が居るけれど、マンションは売ってしまったのかも・・・。

昨年の年賀状を改めて見ると、宛名も全て印刷でいつも書いてある添え書きは無かった。

良く分からないけど、これは多分もうお別れにちがいない。(ー ー;)

(ここだけの話だけれど、男の子は親の後始末をしない。

お見舞いをしてくれた人、お別れに来てくれた人、喪中のはがきを出す必要がある人・・・全く放ったらしが多いように思う。)

 

もう1枚は昨年大晦日にYさんの死去通知の連絡がまわって来た。

年が明けて年賀状の中に彼のも入っていた。

「20日に風邪をひいて念のため入院します」と奥様の字で添え書きがあった。

12月12日に忘年会で会って、珍しく二人でしゃべったのだ。

悲しいお別れ。(ー ー;)

 

年賀状で安否の確認も難しくなった。

それと「平成も終わります。これを機に新年のご挨拶も今年で締めくくりにさせていただきます」というのも有ったりする。

これは儀礼だけになっている場合はこの方が良いかもしれない。

 

元気になるのは亡夫の友達からの年賀状数枚。

彼らはパソコンの印刷では無くて自分で宛名を書いている。

しっかりとした字だ。

もう88才を過ぎている筈だけれど、字は震えたりしていない。

懐かしい顔が浮かんで来て嬉しくなる。

きっと書きながら「元気にしてるかな〜」と思ってくれている筈。

10才年上の先輩も、ずっと年上の同部屋で入院していた友達も、自分で宛名を書いて下さる。これは嬉しい。

年末めんどくさくても、やっぱり出さんとあかん。

 

 

私の平成

平成という時代が終わろうとしている。

29年前、家族とハワイに滞在中に昭和天皇崩御のニュースを聞いた。

レストランで人々がお悔やみを言ってくれたのを思い出す。

平成という年号は帰りの飛行機の中で聞いた。

余り好きな漢字じゃなくてがっかりした。

公の書類の他は全て西暦で記入した。生年月日も・・・頑固な私。

今思えば「平らに成る」て良い言葉だったのだ。

 

昭和の終わり、バブルが膨らんで居た。

人々はお金に目が眩んで狂っていた。

夫が平成元年に買った土地は瞬く間に倍の値段になって、得をした気分になったけれど、間も無く弾けて、買った値段より下がってしまった(ー ー;)

夫の意向で建てた家は私の手に余る大きな家だった。

 

近くに教会が有って牧師夫妻と知り合った。

当時、教会にはアメリカから宣教師が来ていて英会話教室が有った。

娘の勧めで私も参加した。

英語は苦手だし、もともと日本語で喋るのも嫌いなのに英語で喋るなんて・・・無理、無理と思っていたのにドーリー先生とすぐ仲良しになった。

 

夫はパーティ好きでよく人が集まったし、泊り客も多かった。

2人で住むには大きすぎると不服だったけれど、いつでも誰にでも泊まってもらえる良い家を私に残してくれたと今では夫に感謝している。

 

夫は18年機嫌よく暮らして、クリスチャンになって先に天国へ行ってしまった。

私はこの地で教会に礼拝に行けるようになったし、沢山知り合いが出来たし、犬も猫も飼えたし、平成は良かった。

お金も物も必要ない。

少しのお金があって静かに健康に暮らせるのが一番良い。

 

天皇皇后がご成婚された同じ年の5月に私たちも結婚した。

年老いてお互いにいたわり合って公務をされている姿を拝見すると胸が熱くなる。

平成は戦争が無くて平和な歳月だった。

地震津波などの大災害は多かったけれど、あの戦争とは比較にならない。

 

次の御代も祝福されますように。

 

 

 

恵みの数

今朝も寒い。

ダウンコートをこの冬初めて来て帽子も被って教会へ行く。

今年最後の礼拝。

今年の受けた恵みを思い出して見なさい。と後藤先生はメッセージの中でおっしゃった。

先ず健康で過ごせたことを感謝。

悪い所があっても必要な薬も与えられて、食べるものにも不自由なく、寒さ暑さに難渋することなく過ごせたこと。

各地で天災が多くあった年だったけれど、家族が無事に過ごせたこと。

神さまから与えられた恵みはたくさん有って数え切れない。

 

何と言っても今年の一番の感謝な出来事はM子姉ちゃんが洗礼を受けたことだ。

姉妹で賛美歌のデュオもしたし。

M子姉ちゃんの人生は波乱に満ちて苦労が多かった。辛い悲しい思いを一杯して来た。

4年前に車に撥ねられて九死に一生を得て、ようやく今は歩けるようになった。

大きな試練を乗り越えて、大きな恵を与えられて、88才の今は静かに平安に余生を過ごしている。

良かったなあ。

 

ずっと元気で居て欲しい。

「我が母の記」 終り

寒い。

ようやく年末らしい冬になった。

どこにも行かずにお片づけを楽しむ。

「我が母の記」が尻切れとんぼになってしまっていた。

取り敢えず終わりにしようと思う。

 

「我が母の記」 終り

 

母には叱られるというより、こまごま注意されることが多かった。

私は人と喋るのが苦手で(何を言ったら良いか分からずパニックになって言葉が出ない)いつも黙りだった。

そこを母が指摘した。

「口が重い」

男は度胸、女は愛嬌っていうやろ」

もっとお上手を言って愛想を振りまけっていうのだった。

口からでまかせを言って、周りの人を惹きつける夫と出会って「ほ~こんな嘘八百言うてもええのん?」と目からウロコだった。

この手で夫は私の母にも気に入られた。

「一人になったらあんたとこで暮らすわ・・・」

それは実現しなかったが、もし実現していたら口先で丸め込まれるだけで、実生活は大変なのだと納得してもらえたと思うのだが。

 

また、「あんたは冷たい。情が薄い」とも言われた。

例えば、C子姉が風邪をひいて熱を出した。

私は出張ヘルパーを命じられる。

浜寺まで遠い道を駆けつけて1晩泊まって、食事やあれこれ手伝って、翌日姉の熱は下がったので「*ちゃん、もう帰ってくれても良えよ」と姉が言ったので帰った。

母に「帰っても良えというのは遠慮やから帰ったらあきませんねん。あんたは冷とうて情が薄いのや」と叱られた。

本当に居て欲しかったら姉は遠慮せずに「悪いけどもっと居て〜」というはず。

多少の遠慮は有っても帰っても良い・・・と私は判断したのだけど。

私は親切の押し売りはしたくないのだ。

手伝いが要ったら率直に頼んでくれたら、喜んで私の持ってるか細い力を貸すことができると思うのだった。

 

母は時に人を煽ってやる気を起こさせた。

私は娘が一人。H子姉ちゃんには2人の女の子が居た(後に男の子も生まれたが)。

実家に行くと母はこう言った。

「この前H子さんが来たけど、二人の子に赤い可愛らしいコートをお揃いで着せていたで~あの子は甲斐性者やわ」

「ナヌ?」

うちの娘の服は見すぼらしいと言うのん?お母ちゃんは・・・。

そこで、負けず嫌いの私は次は頑張って娘に可愛い服を縫って実家に帰るのだった。

・・・母は満足気。

要は嫁に行った娘たちが幸せに暮らしている様を近所の人に見せたいのだ。

見栄っ張りでもあったお母ちゃん。

娘が多いと大変な面も有ったのだ。

 

母は85才まで家で元気に生きた。

緑内障は病院に通っていたが失明するまでに至らなかったし、足腰も丈夫だった。

亡くなる少し前から急に弱ったけれど、家にお手伝いさんに居てもらって、巣立った子供達に目を配り、時には手伝わせて穏やかに暮らした。

幼い頃から成人するまで貧しく厳しい生活だったけれど、晩年は幸せだった。

最後まで夫婦仲が良かったのが一番素晴らしい。

最後は父が入院していた病院に運ばれて、闘病中は車椅子に乗って父の病室を訪ねていたのだが、父より先に逝ってしまった。

終わり。

年末の家事仕事

気がついたら今年は4日しかない。

年々時間の過ぎるスピードが上がってくるように思われるが、今年は特に早かった。

 

すぐ上のH子姉からのメールによるとお正月の買い物も済ましたし、お稽古事もお休みなので、楽しんで家中の片付けをしているらしい。

姉は何事も計画的にやる人。

妹の私は行き当たりばったりで済ます人。

姉妹でも違う。

今日は姉に見習ってお片づけを楽しもうと思ったが、まだやることが残っていた!

一年に一度の換気扇の掃除。

油物の調理が減ったけれど、それでも油が付いている。

今時の換気扇は掃除もしやすくて、私でも簡単に外して洗える。

ついでにコンロもIHにしてから掃除が楽。

 

と言っても高いところを掃除するのは疲れる。

お昼はお弁当を買って来た^ ^。

 

疲れたから昼寝・・・と思っても観た映画が面白くて2本も観てしまった(ー ー;)

「ベルとセバスチャン」「僕と彼女とオーソン・ウエルズ」。

 

これはあかん!と残っていた仕事、パンを焼いてジャムを煮た。

私は市販のパンとジャムは嫌いなのだ。

 

うちの猫は、私が働くのが嫌で「働かんとくるみと一緒に炬燵で昼寝をしなさい」とうるさく足元にまとわりつく。

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