a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

自分の部屋

dollyちゃんがコメントで質問したこと、戦時中の大家族の寝るときの有り様はどんなだったのか、という疑問だが実は私も余り覚えていない。
あの頃は、それぞれが個室を持つという事は一般の家庭では不可能だった。
ふすまで仕切っただけの広い部屋が主流で、玄関を入ったら長い廊下が有って、左に日本間が2部屋、右が茶の間と台所、お風呂。ただ、昔の畳は大きくて今の8畳の間よりずっと広いし、何も置いてないから、何人も寝る事は可能だった。
多分、8畳の部屋に4人姉妹が寝て、両親は6畳の間、別の6畳にお祖母さん、洋館と言っていた部屋に、兄ちゃんが寝ていたのかなあ。
2階の屋根裏部屋はいつもお手伝いさんの個室に使っていたし。
残った部屋は茶の間だけ。
こんな窮屈な状態なのに、戦後父の遠縁の人が、中国から引き上げて来てしばらく滞在していたことも有る。着の身着のままでしらみを一杯くっつけていて気の毒だった。
引揚者住宅に住む順番が来て移って行くまで、お姉さんとシンちゃんという男の子をしばらく預かっていた。
また、恵比須町のおばちゃんという人が、戦争で家が焼けて避難して来ていた時も有ったし、母はお布団なんかどうゆう風に工面していたのだろう。
家族だけでも食べ物が足らなかったのに、居候がしょっちゅう居て大変だっただろうと思う。
でもあの頃、母が父が決めてする事に不平を言っているのを聞いた事が無い。彼女なりに必死でホスピタリティーに徹したのだろう。母は強かったのだ。
戦後しばらくして『ひまわり』という素敵な雑誌が生まれて、愛読していた。
中原淳一のイラストで、小さな部屋を自分の好みに工夫をして作る『私のお部屋』というのが連載していて、それが羨ましくて、いつかこんな自分の部屋が欲しいと思ったものだった。
今は夢が叶ったと言うか、悲しむべきと言うか、家中が自分の部屋なので、どんなに好き勝手に飾り立てようと、誰からも文句が出ないのである。