今年も終戦記念日がやってきた。
73年前のあの日は暑かった。
私は栄養が足らなくて、口には「あくち(口角炎)」ができて頬にも「はたけ(乾燥性湿疹)」が出来ていた。
母が懇意のお医者さんにビタミンBを注射してもらっていた。
この先生は庭にミツバチを飼っておられて、私に蜂蜜を塗ったパンを食べさせて下さった。
医院から家まで5分ぐらいの距離だけれど、家に帰ると茶の間への入り口に何人か人が立っていて、家族も茶の間に全員居て、ラジオを聴こうとしていた。
天皇陛下のお言葉(玉音といった)が流れて戦争が終わった。
初めて聞いた天皇陛下の言葉にびっくりした私だったけれど、父が「戦争が終わった」と言ったので「良かった・・・」と心の中で思っていた。
その夜から電灯を点けることが出来て、電灯の傘に被せてある黒い布を取り外したので、粗末な夕食ながら安心して食べることが出来た。
次の日登校すると(もう綿入れの防空頭巾は下げていかなくて良かった)担任のH先生が泣いておられた。「私たちの努力が足りなかったから戦争に負けてしまったのよ」。
「八幡様に裸足でお百度を踏めば良かった・・・とかなんとか」。
私はチビで小学校3年生だったけれど、駅から学校までの途中に八幡様が有って、集団登校だったから全員6年生の号令で丁寧にお辞儀をして戦勝を祈ってから登校していたのだけど・・・。
私は厳しい軍事教育や手旗の練習や運動場で立って校長先生の恭しく捧げた塗りの箱から出した巻物を読む「教育勅語!」が大嫌いだったので(6月に登校拒否をしてばれてH先生と母親に叱られた)、本当の気持ちは戦争に負けてホッとしたのだ。
1日の差でこの変化。
戦争と平和の気分の違い。
こうして家を空襲で失うことなく、家族を失うこともなく、戦後の生活が始まった。
一つ間違えば戦災孤児に成っていたかも知れず、原爆で死んでいたかも知れない。
生かされた命だから最後までしっかり生きなければいけないと思う。
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逃走犯人その後。
ニュースによると、犯人は赤いママチャリで北へ逃走。
隣の羽曳野市に乗り捨てられてるのを発見される。
また、女性が乗る自転車の前かごから2500円をひったくる。
これらの情報から、犯人は早い段階で既に羽曳野市から電車に乗って大阪市内に逃走したのではないか?とa-doll探偵は推理する。
大阪市内に潜り込めばちょっと捕まえるのは時間が掛かるかも。