a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

わが母の記 4

朝から雨が降っていた。

先週は大忙しだったので疲れが溜まっていて朝寝坊をしてしまった。

宅急便のハンサムなお兄ちゃんが来た時は、ようやく身支度が整ったばかりで、間に合った〜という感じだった。

今朝は掃除が終わって気がついたらもうお昼。「朝寝坊は三文の損だわ」と思った。

 

  *  *  *  *  *  *  *

 

久しぶりに「わが母の記」の続き。

ほったらかしで何してますねん!とお母ちゃんに怒られそうだ。

 

父が事業を立ち上げたのは大正10年(1921年)3月。

その明くる年に両親は結婚した。

 

その翌年大正12年5月に長女が生まれた。

C子姉ちゃんである。

この年の9月に関東大震災が起こっている。

母は大きな揺れに驚いて赤ん坊を抱いて表に出たらしい。

 

父の事業は順調に伸びていった。

母は陰で支えた。

子供は次々生まれるけれど、母は元気で大病もせず内助の功を発揮できたのは幸いだった。産まれた子供も全員元気に育った。3年おきに6人の子供が産まれたのだった。

この頃、人はすぐにあっけなく死んだものだ。

赤ちゃんでも大人でも。

母が健康なので父は事業に邁進出来たのである。

 

お手伝いさん、丁稚さんの数も増えていき、その面倒は母の役割だった。

住み込みで人を雇うのはエネルギーがいる。

お手伝いさんは殆ど和歌山のお得意先から紹介してもらって来てもらった。

「おきよどん」とか「あきちゃん」とか私の記憶にあるお手伝いさん。

幼児の私が目覚めると母はいなくておきよどん(私は舌足らずでおこちゃんと呼んでいた)が面倒を見てくれた。私はおこちゃんに懐いていたのだった。

 

その頃の父の店は四つ辻の角にあって2階は立つと頭が付くぐらい天井が低くて、そこはぼんさん達が寝起きしていた。

私たちの住居は斜め向かいの借家だった。

まだ4才だったのでどんな間取りだったか、お手洗いはどこに有ったか、覚えてない。

お風呂はなかったのは間違いない。沢山あった銭湯に通ったのだ。

2階の屋根に物干し台があって、植木鉢が並んでいた。

すぐ横にお隣の物干し台が有ってそこから行き来出来るくらいのせせこましい大阪市内の二階建ての町家だった。

6人もの子供とお手伝いさんと両親がひしめき合って暮らしてたのだ。

1階の北側の部屋で、川の字になって寝ていたのを覚えている。

川といっても小さな2本の、3才の私と産まれたばかりの妹が両親に挟まれて寝ていた。

やがて、父は家族も多いし戦争が避けられない状況になってきたので、家を建てる決意をした。

業者仲間が阪神間に住んでいて「Mさんもこっちへ建てなはれ」と誘われたらしいが、なぜか父は大阪市から南の方角の田舎に200坪の土地を借りて家を建てた。

洋館と言っていた赤い屋根の応接間と茶の間、長い廊下があって広い座敷が2間。

北の縁側の端に1部屋。あとは広い土間のお勝手と2階の1部屋。

その頃すでに建材が不足し始めて、思ったような理想の家は無理だったけれど、母は嬉しかったと想像する。

座敷には両親の油絵の肖像画が掛かっていた。

 

第二次大戦では何度も受けた大阪空襲で多くの家や店舗が殆ど燃えて、焼け野原になってしまったのだが、幸いなことに父の小さな商店は戦災を免れて、父は終戦後すぐに商売を再開することが出来たのだった。

 

それはさておき、大阪市内から昭和16年春に田舎に引っ越して、広い庭と家に満足で嬉しかったのだけれど、母は文句を言っていた。

それまで都市ガスを使って料理をしていたのが、お茶一つ沸かすのに七輪に火を起こさなあかん。

水道も井戸水をポンプでガチャガチャと汲み上げなあかん。

慣れるまでは大変だったと思う。

 

それと子供の学校のこともあった。

姉達は近くの小学校へ転校したが、農家の子供が殆どで、H子姉は飛び抜けて成績が良く文句なしにトップで皆から一目置かれていたが、M子姉はいじめに遭ったらしい。

着ている洋服がいじめの対象だった。

当時の農家の子供達の服とは違っていた。

我が家は貧しかったけれど、百貨店で買った洋服を来ていたから目立って、意地悪をされた。

 

私はまだ幼稚園へ行ってなかった。

今なら2年保育でもう幼稚園児の筈だけれど、生育が悪く小さかったのでまだ入園していなかった。

転宅を機に母は私の通う幼稚園を探し始めた。

村には幼稚園がなく、電車で3駅先に有った。

その幼稚園に通うと隣の小学校へ行くことができる。小学校は師範学校の第2附属ということで農家の子も通うが電車に乗って通う子も多かったのだった。

母は幼い私を連れて幼稚園へ見学に行った。

丁度お弁当の時間で園児達はお行儀良くお弁当を食べていた。

母は私に「この幼稚園に通いたい?」と聞いたので私は「うん」と即答した。

幼稚園に通ったらお弁当が食べられるのだ・・・と思った。

 

つづく