a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

私のお父さん 生い立ち

台風が去ったし、私は本格的に夏休みに入った。

しばらく休んでいた「私のお父さん」を書こう。

(この記録は私の姪や甥のために書いているので、退屈な方はどうぞ読み飛ばしてください。)

 

この辺で父の「生い立ち」に触れたい。

父が生前に自伝「私の苦闘時代」を書き残している。

自伝は父の会社のウエブサイトの中の「沿革」に載っている。

それを参考にしてに書き起こすことにしよう。

 

父は明治32年(1899年)石川県金沢市柿木畠で生まれた。

8人兄弟の6番目だった。

5番目の敬五郎は赤ちゃんのときに死んで、7番目の妹公子も幼くして死んだ。

父親は「西南の役」に従軍したという経歴を持つ。

その時に書いた従軍日記が残っている。

江戸へ出て今の士官学校の前身に入り軍人になったが、親戚の反対で金沢に帰って金沢税務監督局に勤めた。

住居は土塀のある立派な家だったらしい。

父(R)は兼六公園の前にある女子師範付属幼稚園に通って居た。

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明治34年春。前列中央1才7ヶ月の父。左端は両親。前列右祖母。

男性は全員袴を穿いている。

 

ここまでは絵に描いたような幸せな家族だったが、父親(庸致)は当時ブームになった鉱山の投資に失敗して大損をして家を失い生活は一変する。

私の父は生涯、賭け事、投機、株の売買等をしなかった。

この時の親の姿を見て、肝に銘じたと思う。

私も幼い時からこの話をよく聞いていたので株は持たない。

 

家族で東京へ出て、父親(庸致)は仕事を見つけ暮らし始めた。

家族が多くサラリーマンの給料では苦しかったに違いない。

東京で小学校へ入学したRはなまりをからかわれ「田舎っぺ!」といじめられた。

でも負けていない。下駄を脱いで両手に持ち、裸足で追っかけたというから根性がある。強い!!

上二人の兄は高等商業学校へ通っていた。

そんな中、小学校5年生の時父親が死去した。

三男(乗三)は東京で養子にもらわれ、のち歯科医になった。

四男(四郎)は金沢で養子にもらわれた。

 

母親と3歳の弟(八郎)と年老いた祖母の4人、東京を後にして大阪へやってきた。

なぜ大阪かというと、当時大阪には次兄が三井物産に勤務して一人で暮らしていたのでそこに落ち着いたという訳。

 

ところが、この次兄は優しいし優秀だったはずだが、どこか欠陥があった様に思える。

会社の接待で覚えた遊興が病みつきになって借金で首が回らなくなっていたのだ。

 

この人は写真を見てもいつもオシャレである。

字が上手で絵が得意だった。

後に私の母の姉(初)のところに婿養子に入ったのだが、その時洒落たオーバーコートを着ていたそうな。

でも後で聞くとコートの月賦が残っていたそうな。呆れるわ(母の言葉)。

見え張りで意志が弱い男だったのである。

 

そんなところへ転がり込んだからお金の入ってくるところがない。

世の中はどん底の不景気で、父(R少年)は家族を食べさすために夕刊売りを始めた。

 

小学校6年生。学校へ通うこともできず丁稚奉公に出ることにした。

小間物屋、帽子屋、活版印刷工場、メリヤス工場と転々と変わって丁稚の修行をした。

沢山の種類のお店に奉公したおかげで、何が自分に向いているかとか、何故お商売が左前になって行くのかとか、何故使用人に使い込みをされるのかとか、銀行との取引のノウハウを覚えることが出来て後の役に立ったという。

当時の使用人は食べ物もロクに食べさせず、朝早くから遅くまで目一杯働かせた上、お仕着せが与えられるが賃金は出なかった。

何年か勤めたら手代になり羽織が着れるようになってお給金が貰える、何年か後に番頭へと格上げされ最後にのれん分けしてもらえるというシステムだったらしい。

お店の奥では贅沢をして丁稚にただ働きをさせる・・・それが船場商人のやり方だったのである。

 

長兄(才一郎)はどうしていたかというと、一ツ橋商業高校を出たものの、父親が死亡し、自分は大病を患い、大阪へ来たが碌な仕事もなく京橋にある砲兵工廠に勤めていたという。

この人も不運な人である。

 

不幸は続く。

苦労を共にしてきた祖母が落胆のうち老衰で死去した。この人は武家から嫁いできた人で根性があった。

子供が二人いて、夫が亡くなった時はまだ35才だったが「二夫にまみえず」と頭を丸めて生涯を通した。

幸せには遠く気の毒な晩年であった。

 

また小さな弟がジフテリアにかかった。

道修町まで走って血清注射を手に入れてやっと癒えたけれど、次々と襲ってくる災難に一家は疲弊してしまったことだろう。

その頃三井物産を辞めて仕事を探して東京でうろうろしていた次兄はみすぼらしい姿で帰ってきた。

難儀な男や・・・m(_ _)m

母は行くへが分からなかった息子が帰ってきて喜んだが、居候が増えただけだった。

 

話は逸れるが父の母(すて)は慈悲深い女性だった。寒い冬、家の近くで工事が有って、人夫が大勢働いていた。

その一人が足を滑らせて川に落ちてずぶ濡れになった。

それを見ていた母は、兄息子の毛のシャツ上下を持って行って着替えさせたという。

自分の所は貧しいけれど、そんなことは言ってられない・・・寒くて震えている人を放っておけないのだ。この偉大な母親のエピソードは何度も父に聞かされた。

 

その優しい母がガンで亡くなってしまう・・・。

R少年の成功した姿を見ることなく・・・(ー ー;)。

 

思うのに、この頃は貧しい人はどこまでも貧しく、今のような行政の支えもないし、病に倒れても医者や薬も高いし誰も助けてはくれない。

ただ救われるのは人々は優しい。貧しい人同士が助け合って、また兄弟親族が力を出し合って何とか貧乏から脱しようとした。

父にとっては大きな大きな試練の日々が続いていた。

つづく