a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

私のお父さん おわり

暑かった夏がようやく過ぎ去って、暑いのに弱い私はほっと一息ついた。

これから多忙な日々が始まる。

そこでまだ終了していなかった「私のお父さん」シリーズをここで終わりにする。

と言いながら父が好きな私のことだから、これからも何度もブログの材料になると思うけれど。

 

私のお父さん 晩年

 

父は比較的元気な人で病気もせず事業に専心していた。

お酒はかなり強くて、酔っ払ったり乱れたりすることは決してなかった。

父の二日酔いなんて知らない。

 

中年を過ぎた頃からか高血圧症に悩んでいた。

血圧が高いと言われて塩分を控えめにしだした。

降圧剤みたいなものは飲んでいたのかな?

晩年、何度も脳梗塞を起こした。

 

76才(?)の時、胆石を患って入院手術をした。

今から40年以上前は、未だ病院は完全看護ではなく終日付き添いが要った。

C子姉ちゃんはとてもとても父を大事にしていたから、兄嫁と私に有無を言わさず、3人が交代で病室に付き添うことを要求した。

3交代だったから朝早く家を出たり、夜行ってお昼の担当と交代する。夜中の担当もあったのである(⌒-⌒; )

府立病院は不便な所にあって通うのは大変だった。どんなルートで通っていたのか覚えてない。

H子姉ちゃんは遠くに住んでいるので日曜日の担当だった。

 

家族の食事を用意して、夫の叔母の家にも時たま行かねばならず、不規則な睡眠でかなり参った。

兄嫁のKさんが「もう無理やわ~」と正直にC子姉ちゃんにクレームを言ってくれたので、取りやめになって間もなく父は退院した。

余談だけれど、C子姉ちゃんの夫K義兄さんが胃潰瘍で入院した時、父はC子姉ちゃんが毎日病院で付き添うのは可哀想と家政婦さんを雇って、姉はたまに病院に見舞っていただけ。

「ええ~?義兄さん寂しいことないのん?」・・・と私は思った(思っただけ)。

今はありがたいことに病院は完全看護になって夜は家に帰らされる。

毎日病院へ通うだけでもしんどくて大変だ。

私の亡夫の時は7ヶ月も入院生活が続いてへとへとに疲れた。

友人たちの助けが有ったので続けられた。

だから父のC子への思いやりは当然と納得できる。

 

ところで、父の付き添いはとりたてて用事はなくて、側で本を読んだりしていたが、夕飯の前になると近くの市場へ行って白身の魚のお刺身を買ってきた。

後は夜勤のナースステーションにお菓子か果物を届ける。そんなことをした時代だった。

 

姉たちは看病に一生懸命で真面目に取り組む。

でも私はずぼらだから、ただ父が起きている時は側で喋ってあとは隣の部屋で本を読んでいた。

それと父が嫌なことは「嫌やったらやめとこ」と無理強いしなかったので、付添婦としては怠慢だが、父は私を一番気に入っていた。

一生懸命に尽くす姉たちには申し訳ないが。

退院の日も私に指名が掛かった。

 

その後、脳梗塞で入退院を繰り返し、最後は付き添いの家政婦さんについてもらって病院で長く長く闘病した。

母が病気になり、同じ病院の違う棟に入院した。

母は車椅子で父の病棟に会いに通っていた。

最後まで円満な夫婦だった。

半年もしないで母が先に亡くなった時、父には言わなかった。

1988年、89才で父は生涯を終えた。

8人も兄弟が居たのに、みんな若く死んで一人取り残されたけれど。

6人子供を作り、孫は14人、ひ孫は20人(?)やしゃご(分からん)・・・。

この中で子供一人(兄)が亡くなっただけで全員健在。

父が創業した会社は甥のSが継いでいる。

おわり