a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

過酷な食糧事情

70年前のこと
1945年終戦後は本当にお腹が空いていた。
タンパク質は大豆だけ。もちろんお豆腐は売ってない。おやつは炒り豆かさつまいも。
サトウキビも良くかじった。友達の家へ遊びに行ったら出されたのはサトウキビ。かじると少し甘い汁が滲み出るのだ。
今なら「パンダみたい」と喜ぶかもしれないけど。
ある日は笊に盛った湯でたての枝豆。
動物性タンパク質は思い出すだけでも嫌だけれど、いなご、たにし、など。食用蛙なんかもあったらしいけど、家族は誰も食べられなかった。

6人の子供と両親と祖母と家族は多かったし、その上戦後大陸から引き上げてきた遠縁の家族も滞在していた。
お米が足りなくなるので「盛りきりごはん」になった。各自お茶碗に一杯だけでお代わり出来ない。平等に盛ってもらった分だけ。
今なら、おかずがたっぷりあるけれど、それも無い。
さらに、それが雑炊になった。水増しされたのである。
ご飯だと大豆が入っていたり、粟や稗が混じったこともあった。麦ご飯は一番上等だった。
野菜は必死になって父が作った南瓜やさつま芋やトマトなど。
裏庭に植えられたいちじく、夏みかん、すもも、ぐみなど。
家の周りは農家の田や畑があったけれど、おいそれと分けては貰えなかった。
ある時、近所の畑で西瓜を盗もうとした女の子が捕まった。
畑の持ち主に「どこの子や?」と問い詰められて、女の子は「・・や」と、なんと私の家の名を言ったのである。悲しい思い出である。

私は痩せていたし、栄養不良だったので、母が懇意の医者にビタミンの注射をしてもらいに通った。食糧はなくてもビタミンの注射液は有ったのかな?
先生は女医さん。庭でミツバチを飼っておられて、蜂蜜を舐めさせて下さった。甘くて舌がとろけそうだった。

つづく

今日のクルミ
キッチンの掃除をする私を見ている。