a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

戦時中に食べた物

雨が止んだので、久しぶりに庭を一回りした。

赤ちゃんのカマキリが蜘蛛の巣に引っかかっていた。

撮影が終わってから解放してやったけど、蜘蛛さんには叱れれそう。

 

今日は戦後の食糧事情について。

(何度もブログに書いているから耳にタコかも知れないけれど)

 

食糧難は戦争が終わった後より一層ひどくなった。

 

お米は配給で、お櫃から温かいご飯をよそって食べることは無くなってしまった。

「もりきりごはん」これはお茶碗によそったらそれ1杯だけでお代わりはなし。という決まり。

それも段々量が少なくなって雑穀入り、はじめは麦ご飯、そのうち大豆入りご飯になった。

これが嫌いで、お箸でつまみ出してお膳に並べていたら、母に叱られた。

泣きながら硬い豆を食べた思い出。

 

大阪には豆ご飯で有名な料理屋さんがある。

料理の最後に煎った大豆を入れて炊いた香ばしいご飯が香の物と一緒に出てくる。

友達と食べに行ったが、美味しくて懐かしい味がした。

子供にはこの美味しさが理解出来ない。

 

配給がいよいよ少なくなったので水増しして雑炊になった。

雑炊は今のお鍋の後の残り汁にご飯を入れるような美味しいものではない。

お揚げさんか菜葉が浮かんでいるだけ。

 

父はお米を手に入れるのに苦労をした。

闇米を買うのだがこれが大変。

お得意先に行って帰りはカバンの底に買ったお米を入れて、見本の商品を上に覆い隠すように並べて検問を突破して持ち帰った。

さぞ重かっただろう。

母は裏の農家の奥さんに頼み込んで夜中そっと分けてもらったり・・・。

あの頃、お弁当のご飯をどうしていたのだろう?

 

亡くなった夫は私より6歳年上だった。

夕飯の時にお弁当にもご飯を詰めてしまう。中学生だったから夜中にお腹が空いて、我慢ができず食べてしまった・・・この日のお弁当はどうしてくれる?

さぞひもじかったことだろう。

私は中学生の頃の夫を思って聞いた時泣いた。

 

動物性タンパク質が手に入らなかった。

家では鶏を飼っていた。

鶏の世話は子供の仕事で、糠に貝殻を砕いたものと菜葉を刻んだのを混ぜて鳥小屋に持って行く。

トートートーと言いながら餌箱に入れてやった。

産んだ卵はまず子供たちに与えられた。

 

いよいよ卵を産まなくなった鶏は、近所のジューちゃんというおじさんが絞めて鶏肉にしてくれた。

「若鶏の唐揚げ」なんかではなくて「老鶏のすき焼き」が夕食に出た日はどんなに嬉しかったか!

「鶏さん可哀想・・・って誰も言わなかった。

 

幼稚園に一緒に通っていたI君の家は食肉業を営んでいた。

食肉牛の解体の仕事だった。

彼のお母さんが軍隊用の牛肉のお裾分けを、そっと届けて下さった事があった。

どんなに嬉しかったことか。

I君は幼稚園の時、家にも来て遊んだけれど、小学校も別の学校へ行ったから会えなくなって疎遠になってしまったが、ずっと感謝の思いは忘れないでいる。

 

稲田に飛び跳ねているイナゴを集めて封筒に入れて持ち帰った。炒めて甘辛く味付けして・・・m(_ _)m

稲刈りが済んだ後の畦にいる「たにし」も(_ _).。o○

 

父は仕事の合間に庭を畑にして野菜を植えた。

近所が農家だからと言っても野菜が手に入るわけではなかった。

トマトやきゅうりやカボチャやさつまいもが収穫できた。

家を建てた時、庭にいちじく、柿、夏みかん、すもも、グミなどを植えたので、この頃実をつけ出した。

砂糖のない時、家の果物はとびきり美味しく思った。

友達の家でおやつにサトウキビをしがんでジワーと甘みが出てくるのも味わった事もあった。

 

私は栄養不足で口角にあくちができていたし、頬ペタには畑ができて、体にも湿疹が出来ていた。

近所の親しいお医者さんでビタミンの注射をしてもらっていた。

 

戦争で多くの子供が飢えて死んだ。

戦争で多くの子供が焼け死んだ。

戦争で多くの子供が親を失って孤児になった。

 

私はこうして85歳の今も生かされている。