掃除と洗濯をする。
午後は年賀状作りを始める。最近年賀状の「お終い」宣言をする友人が増えてきた。
いつも会っている友人には当然もうお終いにする。
でも、長く会ってない従兄弟や友人などには元気で暮らしている・・・と知らせないと。
また知らせてもらいたい。
最近は天に召されてもすぐ知らせない遺族が増えているように思う。
質素な家族葬でも良いけれど(知らせると後々お供えやお悔やみやらで面倒なんだろう)、
少し寂しい。
* * * * * *
ヨブ記(5)
ヨブ自身の苦悩の言葉から、試練のうちにある者の嘆きを知り、それを通して病人へのケアーのあり方を学ぶ。
聖書 ヨブ記6:8-30
1、希望を持てない不安とそのケアー 11
病人は病や試練がいつまで続いて、どんな結末になるのか不安を持っている。
こんな時、すぐにみ言葉を語り「結論」を伝えようとするのは良くない。
「み言葉は剣」エペソ6-17 とある。
大切なのは「長いと辛いですね」と感情を受容することである。
不思議なことに病人は気持ちを受け入れられたと思うと、自分で良い結論を出すことがある。
2、見捨てられたように感じる不安とそのケアー
試練の時には神と人から見捨てられたように感じることが不安である。
落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。14
友情=変わらぬ愛
試練にある者の感情は「見捨てられた感」が強い。
大切なことは変わらぬ愛。
優しさが痛みを和らげる。
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、
また、苦しめられている人々を思いやりなさい。 ヘブル13:3
3、自分に過ちはないという考えを聞くときのケア
私がどんなあやまちをおかしたか、私に悟らせよ。24
「病気になったのは私の何が悪かったのですか?」因果応報の気持ちが働きやすいときである。
この質問に沈黙は同意と誤解される恐れがある。
ヨハネ9:1-3のみ言葉を念頭に置きながら
「それは違いますよ。却って恵を経験する機会と聖書にありますね。信じていきましょう」と
自分の言葉で答えたいものである。
4、お見舞いの意味
病人を見舞う者は何とか励ましを与えたいと願うがキリスト教の教えでは、
お見舞いで励ましを与えることができなくても良い。
なぜならお見舞い自体に意味があるから。
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、
わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。 マタイ25:36