3月3日に予定していたブログ記事が飛んでしまった。
中にはアップされてなくて心配して下さった方もあって、反省しきり。
下書きがないから、新しくもう一度書くことにする。
中学校の友達は比較的裕福なお家に育って、その上一人っ子や長女だから自分の初節句のお雛様を持っていた人が多い。
中にはお父様が早く病気になって、経済的にゆとりが無く自分のお雛様はないという人もあるが。
自分のお雛様を持っていても、それぞれが疎開先で顔をねずみに齧られてくちゃくちゃになったとか、家が全焼して人形も焼けてしまった・・・と哀れな道を辿っている。
彼女らに引き換え、私は四女。
4人目に生まれた女の子に初節句などは無く、その上母に有力なる実家の後ろ盾があるわけがない。
だから戦争で喪失した悲しい思い出は無いのだ。
私の家に松屋町で買ったお雛様が飾られたのは戦後しばらくしてからだった。
それまでにあった古いお雛様はねずみに齧られたりお道具が無かったりひどい物だったから、母は新しい家の座敷に飾るのは嫌だったのだろう。
兎に角、床の間に飾られたのがこれ。
1対の市松さんも飾ってある。
多分、昭和33年(1958年)撮影。
写っている子供たちはC子姉ちゃんの息子たち、KちゃんYちゃん(小学生)。
真ん中は兄ちゃんの長女Aちゃん(幼稚園児)。
Aちゃんの初節句には京都から大きな立派な市松人形が届いていた。
従兄弟たちに挟まれて、ちょっと照れて口をポカンと開いている。
着物を着てネックレスをしてリボンをつけて(私がやったのか?)
一人だけお座布団を敷いている。
この頃Aちゃんのお母さんは病気で京都の実家に帰っていた。
Aちゃんは複雑な思いで悲しい日々を過ごしていたと思う。
今、この写真を見ても胸が痛くなる。
Aちゃんは私をお母さんがわりに甘えていたのだった。
この頃、幼稚園に引率していたし。
写真は楽しそうに見えても悲しい思い出と共に記録される。
私の実家ではお雛様は旧暦の3月に飾ったから、もうすっかり春で、お隣の庭の桃の木の蕾が満開になっていて、本当の「桃の節句」なのだった。
今もその習慣が忘れられず、3月に入ったら雛人形を飾って、3月は丸ごと「雛の月」にしてお人形遊びを楽しんでいる。