昨日はコーラスの練習の後、東雲町から四ツ橋まで4人でタクシーに乗った。
松屋町筋の手前で私が「私ここの左手当たりで産まれた」と言った。
「焼けたん?」と誰かが聞いた。
もちろん私達の学校も火を被ったし、この辺り一帯は全部焼け野原になってしまったが、奇跡的に我が家の一角は焼け残ったのだった。
友達は皆大阪市内で産まれ育った。
Y本さんの家は全焼した。焼け跡に土蔵だけが、ぽつんと残っていたのは良かったが、戸を開けた途端に火が出て、中は丸焼けになったそうだ。何日か経って見に来たら、他人がその中で生活していたらしい。
I橋さんは島根県に学童疎開していて、終戦で帰る事が出来たのは良いが、一昼夜掛かって、大阪駅に着いたらふらふらで地面がゆれて立っていられなかったそうだ。栄養失調だったし。
そんなこんな、終戦時の思い出を語りながらタクシーに乗っていたら運転手が感心していた。「奥さんら戦争を知ってはんのでっか」と驚いている。
戦争の事を知っている者は少なくなっているのを実感したが、運転手は「見たとこそんなお年に見えまへんで〜」とお世辞を言ってくれた。大阪の運転手は口がうまい人が多い。降りる時も「ゆっくり気いつけて降りて下さいよ」と優しい。
思わず「おつりはええよ」と言ってしまった。
わてらは大阪のおえさんやねんから、みみっち事は出来しまへん。
写真:クルミちゃんはテレビ番組『ダーヴィンが来た』が好き。かぶり付きで見ている。