キリストの十字架は朝の9時から午後3時までの6時間だった。
最後が近くなった時、語られたのが第六言であった。
第六の言葉 「完了した」ヨハネ19:30
1、意味
以前使われていた口語訳聖書では「すべてが終わった」と訳されている。
ここからある人は、キリストは兵士たちに無慈悲な酸い葡萄酒を飲まされ「万事休す」の意味で「すべてが終わった」と言われたという。
しかしそうではない。
私たちが現在教会で使う新改訳聖書では「完了した」と訳している。
つまり人類に対する救いの業が完了したとの意味である。
言葉を変えれば、キリストは人間の罪のために身代わりの裁きを完全に受けて下さり、それ故に救いの道が開かれた、という意味。
2、人間に求められること
「完了した」の意味を「救いの業の完成」と理解する時、人間の成すべきことは次の事柄である。
①信仰のみ
人が救われるために成すべきことは、ただキリストへの信仰だけである。
善行は不要である。ローマ3:28
またこのことはキリストへの信仰を持たなくても自分の善行があれば救われるとのカトリック的或いはヒューマニズム的自己義認の考えを退ける。この考えは罪の認識を無視している。
②キリストによる救いのみ業を喜ぶ信仰
クリスチャン生活の基本はキリストがなしてくださった救いのみ業を感謝し神を喜ぶ生活にある。
神を喜ばせることではなく、神を喜ぶこと。
悲しんではならない。
あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。 ネヘミヤ8:10
3、人生の完成者は自分ではなく神である
私たちが死の時、未完の事柄があるのを思い、心乱れるのであるが、キリストは「全てを完了」することの出来るお方であり、ご自分の事柄だけでなく、私たちのことも含まれているのである。
主は私にかかわるすべてのことを、
成し遂げてくださいます。 詩篇138:8