今日も暑くて家に籠ることにする。
何の予定もなし。
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聖書の動物たち(12)ー山羊(やぎ)
金剛バプテストキリスト教会婦人聖書の集いより
聖書 マタイ25:31-46
1、キリストは譬え話で世の終わりの審判のとき、御国を受け継ぐ選別基準を教えられたが、
その譬え話で使われた動物が「羊と山羊」である。
羊を自分の右に、やぎを左におきます。25:33
2、その際「永遠の命」に入れたのは「羊」で譬えられた人々であり、入れなかったのは「やぎ」で譬えられた人々であった。
イスラエルではやぎは羊の牧羊犬のようにもなれる賢い動物で、立派な角もあり羊より強い。
3、しかしなぜ「やぎ」で譬えられた人々は永遠の命に入れなかったのか。
理由は「羊」で譬えられたひとびとは「小さな者への愛の業」をなし、
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。40
「やぎ」で譬えられる人々は「小さき者への愛を示さなかった」からだと教えられる。
おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、
わたしにしなかったのだ。45
4、すると、この話自体は理解しやすいとしても、福音が教える「永遠の命」に預かる条件が愛の業という行いになってしまい、聖書が強調する「信仰による救い」と矛盾することになる。
人は律法を行うことによってではなく、
ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、
私たちもイエス・キリストを信じました。
律法をおこなうことによってではなく、
キリストを信じることによって義と認められるためです。 ガラテヤ2:16
これが聖書理解の課題である。
5、カトリック教会の解釈
カトリック教会では「善行の功徳によって救いに預かる」(カトリック要理)
としている。しかしこの教えはガラテヤ2:16に矛盾している。
6、プロテスタントの一部の解釈
ある人たちは「信仰による救い」とともに「愛の業」をしたかどうかも判断の基準、と教える。
2種類の救いの方法があるというのである。
しかし聖書の基準は「信仰のみの救い」である。
エペソ2:8ー10
7、聖書信仰の立場
この箇所は「愛の業」が「救いの基準」であると教えているのではない。
世界の基が据えられたときから、
あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。 34
とあるように「愛の業」が行われる前に「救い」は明白であった。
正しい人たちは永遠の命に入るのです。46
とあるように、愛の業が救いの基準ではなく、信仰による義(正しさ)を持っているかどうかが永遠の命に入る基準である。
すでに救いに預かり正しいとされた者が地上で驕らず高ぶらず愛の業に励むべきことを教えている。
「小さな者」にした愛の業はキリストにした愛の業である、という光栄なのだから。