雪が降って冷たい日だった。
歯医者に行って掃除をしてもらう。
「掃除は痛いから嫌ですねん」と言ったら、先生は「私も歯の掃除は痛いということは経験してよく知っています」とおっしゃった。
(へーえ、歯医者さんも歯の治療をしてもらうのや)と思った。考えたら当然のことやけど。
友達の歯科医に診てもらって歯石を取ってもらうとか。
今日の掃除は全く痛くなかった。
午後はミステリーチャンネルを観て、夜は聖書の勉強をする。
婦人聖書の集いより 助産婦たち
出エジプト記1:15-22
信仰者の人生には必ず時代環境で信仰のチャレンジがある。
神に従うか、権力に従うかという選択をせまられるものである。
モーセが生まれる少し前にもそのような選択を迫られた助産婦たち(シフラ プア)がいた。
出エジプト記1:15-22
1、助産婦たちが直面したチャレンジ
紀元前1500年ごろ。
エジプトが地上最大の王国で、ヤコブとラケルの子ヨセフが活躍したのは過去のことになっていた。1:6
イスラエルの民は夥しく増え、7 エジプトを脅かすほどの民となった。
恐れたエジプト王は、ヘブル人の助産婦たちに「男子が生まれたなら殺せ」と命じた。
無事に出産させるのが務めの助産婦たちには、誠に辛い選択を迫られた。
表現の違い 一口メモ
ヘブル人=多民族から見て「寄留者」という呼称
2、助産婦たちの決断と行動
国家の最高権力者であるエジプト王の命令を背くことによる命の危機を感じたに違いない。
しかし、彼女らは王の命令に従わなかった。
その理由は「神を恐れた」17 からである。
つまり神に与えられた「命」を人間の手で抹殺することは出来ないという信仰的決断からであった。
男の子がうまれても生かしておいた。
助産婦たちの弁明には知恵がある。
エジプトの王は言った。
「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
助産婦たちはパロに答えた。
「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」18、19
3、助産婦たちを守り祝福される神
神は助産婦たちの命を守り、更には「彼女たちの家を栄えさせた」21
助産婦たちは神に従ってよかったと安堵の思いであったろう。
※ペテロがキリストを否んだように、人間にはこの種の弱さも潜んでいることを自覚しなければならない。
神が私たちに与えてくださったものは、
おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みの霊です。 第2テモテ1:7