ごみ収集車が来るまでカラスを見張りながら落ち葉掃きをする。
山茶花が咲き始めた。
うちの山茶花はおくてでやっと咲き出した。
「我が母の記」4 つづき
さて、大層な結婚式をして新生活に入ったのだったが、夫はお給料を3日で使ってしまうという特技を持った人だったから、たちまち親から貰っていたお金は使い果たしてしまった。
親に言って夫の恥を晒すのは嫌だし、生活費を生み出すにはどうしたら良いか・・・?
外で働いたことの無い私は考えた。
それは踊りのおっしょさんでもなし、お茶やお花の先生でもなし・・・手っ取り早いのが洋服の仕立。
これなら、幼い娘を遊ばせながら家でミシンとアイロン台が有れば出来た。
洋裁学校は卒業したけれど、実際に縫えるようになったのはH子姉と兄嫁のお陰だ。
H子姉は私が三味線を弾いていたら「遊んでばかりせんと洋裁やってしまいなさい!」と叱った。私は本当は洋服を縫うのは余り好きじゃ無かったのである。
叱咤激励されて教えてもらいながら縫えるようになったのだった。
兄嫁は洋裁が得意で、兄が出張で留守の時はよく泊まりに行って洋裁の宿題を教えてもらった。
手早く縫えるコツを教えてもらったと思う。
というわけで、洋服の仕立を始めてお小遣いを得た。
得意先はとりあえず私の妹。結婚前だったから一緒に服地を買いに行って、仮縫いをして何枚も縫った。
それから6才年上のM子姉.。ピアノを教えていたから発表会の洋服を毎年注文してくれた。勿論普段着も。
M子姉は金銭に細かい。
「材料費は裏地が**、釦は**円、仕立代は**円で合計これだけ」と請求すると、きっちり金額をくれた。「お釣りはええわ」というタイプでは無い。
それでも私はお小遣いが手に入って嬉しかった。
一番上のC子姉は上得意で、私はアドバイザーも兼ねていたから、出来上がったら洋服に相応しいアクセサリーを買うのも付き合った。
C子姉は気前の良い人で、いつも私にもアクセサリーを買ってくれたし、私の貧しい生活に潤いを与えてくれた優しい姉だった。
夫の叔母(この人には仕立て賃は取れなかった)のも。
私の母のも縫った。
母はおしゃれな人で着るものに拘った人だったけれど、衣類は明治生まれだから和服の習慣が身に付いていて、洋服のことは分からないので私任せだった。
私は母の好みを知っているから、服地を買って来てシンプルでロマンチックな着やすいワンピースを作った。
私が仕立物をして生活費を得ていると知った夫の父親に「あんたが働くから遊ぶのやで」と文句を言われた。
この夫の父親はずっと家賃を払ってくれていたし、私が筋道を立ててねだったら、娘のピアノも、部屋の冷房機も買ってくれたし、後にはマンションの頭金も払ってくれた気前の良い舅だった。
普段はけちけち暮らしていて、私にも「マッチ1本、しで紐一筋、無駄にせんと生活してくださいよ」と初めに言った。
私はこの舅には会うたびに夫の愚痴を言っていたような気がする。
心配かけて悪い嫁やったなあ。
そんな訳で、折角親に月謝を払ってもらった多くの免状は使い道無しで、免状箱に仕舞ったまま60年間眠っているのである。
「私は免状持ってます」と見せびらかす場には出くわさなかったけれど、お茶席に招かれた時、展覧会場などで芳名帳に名前を書く時、臆せず振る舞えるのは体に教え込まれているもので、親に感謝をしなくてはならないと思って過ごしてきた。
今は目が片方悪くなって、洋服を縫うことも出来なくなった。
習ったこともなく、卒業免状をもらえる学校に通った訳でもないのに、コーラスや歌うことが今の一番の楽しみやなんて思いもしなかった。