a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

コーラスは楽しく

コーラスの練習に京橋まで行く。

学校の同窓会館は学校の行事のために(試験?よくわからない)使えないので、指揮の先生のスタジオで練習をした。

場所が変わるだけで何か新鮮。

所がアカペラで歌う予定の「とおりゃんせ」がちょっとも上手にならず、ついに諦めで他の曲を合唱祭に歌うことになった。

アルトだけパーフェクトに歌えるのだけど。

アルトは熱心に予習復習をしてくるタイプが多い(どこの合唱団でも言えること)が、他のパートはその日限りだから全く上達しないし、アカペラは無理!!

先生がついに諦めはったのでホッとした。

優しい歌をハモって楽しく歌ったら良いのである。

穴あきセーター

今日は、家にいると暖かくてこまごました用事が沢山片付いた。

その中で「つづくる」という(今は死語になっているかもしれない)仕事をした。

穴の空いた衣料などを糸で縫ったり当て布を足して塞ぐことをつづくるという。

今は穴が空いたら捨ててしまうのが普通になってしまった。

昔は靴下や足袋のつづくりは常だったし、セーターの肘の所ズボンの膝の部分に当て布をしてつづくる、というのもあった。

我が家に残っている木綿の風呂敷でも穴に当て布を貼って丁寧に縫ってある。

破れたからもう捨てなさい。

というようなことは決して無かったのだ。

だから私も断捨離しにくい。

 

私の衣類(特にセーター)はよく見ると小さな穴が空いている。

これは猫の所為で、出かけようとすると背中に登ってしがみつくから爪で細い糸を引っ張って穴を開けてしまうのだ。

特に薄手のセーターの被害が多い。

値段が高かったし気に入ってるセーターが被害に遭う。

残念でもったいない。

で、つづくる。

 

つづくっても新品にはならない。上からベストを着たりスカーフで隠したり・・・。

老いて穴の空いたセーターを着ているのはみすぼらしいものだけど。

猫の所為で苦労をする。

テレビに出た猫

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クルミちゃんテレビに出る!!

今日は「ねこのひ」で、夕方のテレビのニュースに、娘が今朝撮ったこの写真が映った。

2階のベランダの手すりに座って写真を撮る娘に怒っているのだ。

 

私は残念ながら観ることが出来なかったが、教会の友達Nさんから電話があって、

「さっきクルミちゃんにそっくりの猫ちゃんが映っていたので嬉しくなって電話をした」とおっしゃった。「投稿者はT市の『空の鳥』さんて言ってた」。

うちの娘である。

うちのクルミは1年ほど前もテレビの天気予報の画面で映してもらった。

大勢の人に見てもらって幸せなねこである。

今は炬燵の中で寝ている。

喜びの生活

午前中に美容院に行って買い物も済ました。

昼食後はこの所B.Sプレミアの映画を毎日観ているが、今日は寝てしまった。

暖房も要らないほど暖かくて用事が片付いた。

明日届けるお人形の記念写真を撮る。

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    *  *  *  *  *  *  *

 

新シリーズ「喜びの生活

「喜び」の本質(1) 婦人聖書の集いより

 

聖書は多くの「喜び」について語っている。

この世の「喜び」と、聖書の語る「喜び」の違いの本質的なことを学ぶ。

 

聖書 ルカ10;17~20

 

1、この世の喜び

この箇所は、弟子達が伝道の成果を喜んでキリストに報告しているところ。

キリストは弟子達にこの世の喜びと聖書的な喜びの違いについて教えられた。

この世の喜びというのは、例えば達成、合格、就職、成功、結婚、癒し…のように好ましい結果や情報によってもたらせられる喜びである、

その特徴は、

①外部的条件に依存

②消え易い一時的な喜び(結婚などは特に・・・)

 

クリスチャンの奉仕の中にはこの世的喜びは侵入しないと思われがちだが、そうではない。

その例として、3人姉弟のマルタの中に見られる。

 マルタという女が喜んでお迎えした。

 彼女にマリヤという妹がいたが、

 主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

 マルタはおもてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て云った。

 「主よ。妹が私にだけおもてなしをさせているのを、

 なんともお思いにならないのでしょうか。

 私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。  ルカ10:38-40

 

2、聖書の喜び

喜び=原語は「カラ」であり、「カリス」(恵み)を語源とする。

(カリスマ=賜物)

 

聖書的喜びは、外部の条件や人間の感情に依存するものではなく、神の恵みを理解してこそ与えられる。

 あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。ルカ10:20

は、その代表的神の恵みであるが、この聖書的喜びの自覚を弟子達は忘れて、この世的喜びにかくれてしまった。

キリストは喜びの転換を命じておられる。

この不思議さは私たちの内に働く精霊とみ言葉によってのみ、うなずくことのできる喜びと云えよう。

 神の国は、義と平和と精霊による喜び。 ローマ14:17

 どうか、望みの神が、

 あなたがたを信仰による全ての喜びと平和をもって満たし、

 精霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。ローマ15:13

ヨブ記(12)

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人形のボディの修理をした。

人形用のゴム紐もその道具も断捨離の嵐を避けて保管してあったので良かった。

作業は主に指先の感覚に頼っている。

シュミーズとブルーマーは洗濯した。

明日、新しい(といっても中古の)ドレスと帽子をかぶせて完成する。

人形と関わっている時間はやはり楽しい。

 

   *  *  *  *  *  *  *

 

ヨブ記(12)

婦人聖書の集いより

 

ヨブの長く重い試練にも終わりの時がやってきた。

大きな祝福が最終章で語られる。

 

ヨブ記 42:1-7

 

1、神を深く知る祝福

 あなたはどんな計画も成し遂げられることを私は知りました。

ヨブは一切のことが神の最善計画の中に起こることと受け入れ、主に委ねる信仰を得たとの意味。

(神には間違いがない)

 

 私は、自分で悟りえないことを告げました。

 自分でも知りえない不思議を。

世の中には神だけが知っておられる領域と、人には知りえない領域があることを受け入れたという意味。

(謙遜)

 

 私はあなたの噂を耳で聞いていました。

 しかし今、この目であなたを見ました。

ヨブはこの試練で神からの個人的語りかけを聞き、試練の前よりも一層深く神を知る満足を得て、信仰が強められた。

 苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。

 私はそれであなたのおきてを学びました。  詩篇119:71

 

2、友人に対する赦しと執りなしの祈りの祝福

ヨブの友人たちは苦難の中にあったヨブを断罪し苦しめたが、その友人達をヨブは赦して神に執りなしの祈りをする。

人を赦せるのは、ヨブが神の赦しと恵みを経験したからだろう。

 神が赦してくださったように赦し合いなさい。コロサイ3:13

 

3、繁栄の回復の祝福

ヨブに与えられた繁栄の驚くべき回復が記される。2倍の回復!

大切なのは、

ヨブがその友人のために祈ったとき・・・主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。10

友人を赦すことは祝福の土台である。

 

 前の半生より後の半生をもっと祝福された。

 羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭12

 また、息子7人、娘3人を(ヨブの娘ほど美しい女はこの国のどこにもいなかった)を持った。15  

すご〜い!

ヨブ記おわり

愛唱賛美

午後、礼拝堂で「愛唱賛美を分かち合う会」が行われた。

28曲もの愛唱歌が披露されて、全部を出席者全員で歌った。

その中で、若者の愛唱歌は私たち世代は知らないし難しい。

リズムに言葉についていけない。

歴史的にも、その時代に流行っていた音楽にみ言葉を乗せて賛美歌は作られているだろうから、無理もないし当然のことだと思う。

何年か先には賛美歌といえばこんな曲が主流になっているのだろう。

今私が歌っている賛美歌は古典として歌い継がれて行くのだろうか。

 

楽譜を貰ってきたので、若者の歌も歌えるようになりたい。