婦人聖書の集いより
聖書:ルカ16:19−31
今日の譬え話は死後の世界に関するもので、「ラザロ」と実名で書かれているので実話かもしれないといわれている。
死は神様以外誰も未知の世界である。
この譬え話は感動的であるが、分からないところが2箇所ある。
疑問1、1匹の羊を探すために99匹の羊を放置することについて
迷った1匹を探す羊飼いの話は感動的だが、野に放置された99匹の運命はどうなるのか。
1匹のために99匹を放置して良いのか?むしろ1匹を犠牲にしてでも99匹を守るのが羊飼いの当然為すべきことではないのか?
日本的風土ではその心配は当然である。
答え
その人は99匹の羊を野原に残して、いなくなった1匹をみつけるまで探し歩かないでしょうか4
というキリストの言い方は、失った1匹の羊を探すために他の羊を野原に残すことは当時の読者には何ら違和感がなかったことを意味する。
なぜなら岩や砂漠の多いユダヤ地方で「野原」は食料を満たせる唯一の場所なので、99匹の羊は十分満足していて、他の危険な場所に行くことなく、じっとしているというのが前提である。
疑問2「悔い改める必要のない99人の正しい人」とは誰か?
・この話は、主イエスが取税人や罪人たちを温かく迎え入れることに、パリサイ人と律法学者が批判したことに対する話として理解されねばならない。1−3
・下記の構図ができる
a.99匹の羊=パリサイ人、律法学者
聖書の教えによれば全ての人間は神の前に罪人であるから、悔い改めの必要のない正しい人などいない。
それは、次のように書いてあるとおりです。
義人はいない。ひとりもいない。 ローマ3:10
とするなら、この99匹の羊で代表される「悔い改めの必要のない正しい人」とは、悔い改める必要など更々感じていない「自称義人」なのである。イエス様の皮肉である。
b.1匹の羊=取税人、罪人たち(悔い改め神の恵みを回復した人)
「取税人や罪人たち」は自らの罪のゆえに、飢え渇き傷を受けさまよっている人々である。だから主はその1匹のために探し求め、見つけたら「悔い改める必要のない人たち」にまさる喜びが天にある、と言われた人たちである。
同じ譬え話、15:8−10 銀貨の話
15:11−32 放蕩息子の話