婦人聖書の集いより。
聖書 ヨハネ15:1−5
1、私たちの願いとキリストの願いの違い
・私たちは人生で「豊かな実」を結ぶことを願い、また努力目標にするが、キリストの願いはそれと違って、葡萄の木(キリスト)に枝(信者)が「とどまること」である。4節
・「実を結ぶ生活」はキリストにとどまることによって与えられる神からの約束である。
それゆえに信者は実を結ぶことを努力目標にしなくても良いのだ。
時がくれば実を結ぶことが約束されているからだ。
むしろ私たちに「努力」が求められるとしたら、それはキリストにとどまることを通してキリストと生きた交わりを保つことである。
「キリストにとどまる」とは、礼拝、みことばに聞く生活、祈りある生活のことである。
・「実を結ぶ」とは何か。
御霊の実 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制 ガラテヤ5:22
働きの実 ピリピ1:22
2、農夫である「父」
「父」なる神の仕事=枝を取り除くこと 1節
農夫にとって剪定は腕の見せ所であるが、この作業は信者にとって「試練」を意味している。
試練はヘブル12:10、11にあるように実を結ぶための大切な作業なのである。
3、「とどまる」ことの意味
原語は「メノー」という言葉だが「忍耐する」と同義。
忍耐というと「試練をじっと我慢し続ける」というニュアンスだが、そうではない。
試練のそばでなく、試練の時に「キリストのそばにとどまる」事が「メノー」でありそれがまた実を結ぶ生活へと導かれていく。
神の摂理を理解しておきたい。
ところで『メノー』であるが、「瑪瑙は何色ですか?」と牧師先生に聞かれて、全員「??」だった。
先生は「ということはみなさんは持っていないという事ですね」とおっしゃった。皆「ふむふむ・・・」。
後で調べると無色の半透明な石である。何色にでも染める事ができるらしい。先生の質問の答えは「色は無い」に等しい。