今日からようやく普通の日課が始まった。
火曜日は暇なので、午前中に聖書の勉強ができた。
日曜日に礼拝でメッセージを聞くが、忘れっぽいのである。
今日は火曜日。大分忘れかけている。
土曜日になると殆ど忘れ去られている。
だから日曜日は必ず礼拝に出て説教を聞く必要があるのだ。
夕方、横浜から姪が来た。
おやつを食べながら積もる話をする。
お土産の葛餅。カステラも食べた。
夕飯は豚肉のしゃぶしゃぶ。
日曜礼拝メッセージより
「破れ口に立て」
聖書 エゼキエル22:30
破れ口はどこにあるか?家庭、仕事、健康など。
人は破れ口にたって修理をするのがつとめである。
ところがエゼキエルは修理できなかった。
なぜ?
それはある間違った考えに捕らわれたからである。その理由は、
1、不幸の時代を過ごしていた・・・バビロン捕囚。
屈辱の思いで過ごしていた。
彼らの言い分は「先祖が悪いからしょうがない・・・」18:1~4
「何々の所為」と言い訳をする責任転嫁を止めよ。4
2、苦々しい思い
喜び、感謝がなくて生きるのは良くない。3:14、15
喜びをもって生きる。
神の愛を受けとめ直す。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来れ。 詩篇100:2
3、未来に希望を持つ事
谷間の真ん中に置かれた多くの干からびた骨。
主はこう仰せられる。
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹きいれるので、おまえたちは生き返る。37:1-5
バビロンのイスラエルの民が希望をもって回復へ歩む。
日本人の多くが神社で引くおみくじ。
「凶」が出れば木の枝に結ぶ。
クリスチャンの特権は「凶」全てをキリストが十字架で受けてくださった。
大きな恵みと特権である。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、
「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。 ガラテヤ3:13