コロナ禍の中で連休始まる。
ニュースで見る各地は閑散としている。
少し暑くなった。
でも爽やかで、若葉が風にそよいできらきら光っている。
5月2日はH姉ちゃんの誕生日。
87才になった。
H子姉ちゃんはまだまだ元気で、コーラスにフラダンスに俳句・・・と老後の生活をエンジョイしている。
毎朝、一番にパソコンを開いて私のブログを読むのを楽しみにしてくれている。
私が毎日眠くても書くことが無くても、どうしてもブログを更新せねばならない理由がここにある。
姉とは3年半離れている。
良い季節に生まれたからか、体格が良く、勉強もできで、音楽からスポーツまで全て満点の姉。
書道も抜きん出ていたし、洋服を作るのもお手の物。
真面目。
正義感が強い。
ズルはしない。
良妻賢母のお手本のような女性だ。
一人暮らしをエンジョイしている。
私は実家にいる頃、いつも後ろをくっついて歩き、映画を見たり歌舞伎を見たり、姉が読んだ本は必ずその後で読んだ。
影響が大きい。
結婚生活も、子育ても人生のお手本のようなお姉ちゃんなのだ。
H子姉ちゃんのお陰で「得したなあ~」と思えることが多くあったけれど、中でも思い出すのは、もう25年以上前になるけれど、ニュージーランドに演奏旅行で行った時のこと。
ここからは私の自慢話。
ニュージーランドのウエリントン市と日本の堺市が関西空港が出来て直航便が飛ぶことにより姉妹都市となった。
そこで、堺市はウエリントンでの記念行事に堺の各合唱団に「ベルディ・レクイエム」を歌う団員を募集した。
夫が「行って来たら良えがな」と勧めてくれたので、友達と一緒に行くことにした。
団員は100人ぐらい居たかな~
その頃のニュージーランド大使T氏はH子姉ちゃんの幼稚園からの幼馴染。
Hちゃん。**。と呼び合う仲良しだった。
H子姉ちゃんは私が行くことを彼に連絡してくれたので、私はウエリントンに到着したその日、大使館での昼食会に招かれた。
指揮者やソリスト、堺市のえらいさん(助役さん?)、合唱団の代表その他の人々と共に、ただの合唱団員なのに一人だけお招きを受けた。
大使館は大きくて玄関には日本の国旗が翻っていた。
広間には大きなグランドピアノが置かれて、その上に天皇皇后(今の上皇さま皇太后さま)の写真が飾られていた。
私はH子姉ちゃんから託された「松茸の塩昆布」を持って行った。
T氏ご夫妻にご招待のお礼のご挨拶をする。
T氏は良く実家にも遊びに来ておられたから私は顔なじみだった。
そして高校の先輩でもあったので、親しく会話が弾んだ。
「Hちゃんは『妹をよろしく』って2回もお手紙くれはったよ」とT氏。
ウエリントンではコンサートが開かれて、ウエリントンの合唱団員と共に歌った。
無事歌い終わって明日はクライストチャーチに発つという日。
T氏はフロントにH子姉ちゃんへのお土産を預けておられた。
クライストチャーチでも「ベルディ・レクイエム」の演奏会があった。
出演の時間待ちをしている時に、私を探して一人の男性がやってきた。
その人はクライストチャーチの総領事だった。
「大使から連絡を受けています。
ご旅行中に問題が有りましたらご遠慮なくご連絡下さい」と名刺を下さった。
ここまで日本から来た友人に行き届いた世話するのか、
と私は感動してしまった。
彼がとても感じの良い紳士だったから・・・。
この旅行はとても楽しかった。
一緒に行った友人は今でも仲良しだし、共通の楽しい思い出が残っている。
ワイトモの土ボタルの幻想的だったこと。
友達大勢でレストランで伊勢海老(?)に食らいついたこと。
T氏は残念ながら引退後早くに亡くなられたが、私の中には素敵な先輩として大事に思い出をしまってある。
旅行の後、H子姉ちゃんに「Tさんが大使の間にニュージーランドに行ってきたら?」と言ったが、H子姉ちゃんは夫第一の良妻賢母。
夫を留守番させて海外旅行は以ての外という人。
夫を放っておいて遊び歩く私は不良なのだ。
H子姉ちゃんは未亡人になってからハワイへフラダンスを踊りに行っているから、やっぱり賢夫人なのだ。
H子姉ちゃん、この一年も楽しく過ごしてくださいよ。