晴れて少し涼しくなってほっとする。
久しぶりの聖書の話。
アブラハムの生涯の山場である。
アブラハムの生涯(12)ー最大の試練
アブラハムにとって最大の試練が起こる。
「子をささげよ」とは!
折角神が与えられたのにどうして?
そんな辛いことを何故?
この不可解なことをどう理解するか?
聖書 創世記22:1-14
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、
モリヤの地に行きなさい。
そして私が示す一つの山の上で、
全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」1
1、神が試練を与えられる意味。
神がアブラハムを試練に会わせられた。
愛の神がなぜ人に苦しみの試練を与えられるのか?
人はこれで悩み、苦しんで来た。なぜ?
ここで理解しておくべき事は→神と悪魔の違い。
①悪魔の場合は「誘惑」であって、その目的は私達を「悪に導く」ためである。
②神の場合は「試練」であり、その目的は私達を「良きものに導く」ためである。
「神はアブラハムを試練にあわせられた」理由はそこにある。
2、アブラハムが人生で克服しなければならなかったことはは何か?
①「愛する者は誰のものか?」が問われた試練。
愛する者を手放す事ほど辛く悲しい事はない。
命も子供もお金も事業も神から戴いたものなのに、いつの間にか「わがもの」になり、執着が生まれるのだ。
子供はいつか手放さなくてはならない。
私達は元々裸で胎を出て裸でかしこに帰る存在。
「子供を捧げよとは何と理不尽な!」と叫ぶのは、主客転倒から発する言葉なのだ。
神が第一であるべきなのに、
神が下さったものが「我が物」になり第一になった。
それが問われた試練。
②「神の御言葉に従って間違いはないのか?」が問われた試練
イサクは神が与えられた約束の子である。
そのイサクを捧げれば、約束の意味がなくなるではないか!
どう乗り越えたか。
ヘブル11:17-19
アブラハムは自分が正しいとする生き方でなく、神が正しいのだとする信仰を学んだのである。
3、ひとり子さえ与えたもう神
神はアブラハムのひとり子イサクを助けるために雄羊を備えられた。13
しかし2千年後、神は人類の救いのために御自身のひとり子を神の子羊として十字架に実際かけられ救いの道を開かれた。
ヨハネ3:16
イサクを捧げる話に「神は酷い」と呟く前に、神が我々を救うために御自身のひとり子を捧げられたことに感謝を忘れてはならない。