a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

モーセ(26) モーセ生涯を終える

十一月も半ばに近づくと「喪中はがき」が届く。

今日は小学校からの仲良しのO君から「弟が永眠しました」との葉書が届いたので、お悔やみの電話をかけた。

これは口実で、お互いに長く連絡が途絶えているので、元気にしているのか知りたかったのだ。

普段も用事がなかったら電話はしないけど。

 

彼はコロナの中でも元気そうだった。

たった一人の弟さんを亡くして辛かったようで、しばらく話を聞いた。

「また骨折ったんかいな、何してんねんな、気つけんかいな」と言われた。

 

仲良しの友達は元気でいて欲しい。

 

今日は私の寝室とお手洗いをヘルパーさんが来て掃除して下さった。

骨折以来、ごちゃごちゃしていたベッド周りが片付いて清潔になって嬉しい。

早く自分で掃除が出来る様になりたい。

 

 

      *  *  *  *  *  *  *

 

 

モーセ(26) モーセ生涯を終える

モーセは約束の地カナンを目前にして40年に亘る苦難の旅を終えようとしている。

死を迎えるのだ。

彼も夢見たであろう約束の地には入れない悔しさ、悲しさ。

 

聖書 申命記32:48-52

 

1、モーセが犯した罪

モーセの罪とは、

○ 神への信頼を裏切り、

○(民に)神を聖なる方としなかった(罪)である。

具体的に見る。

民数記20:2-12

「岩に命じ」→「岩を二度打った」11とある。

「岩に命じる」だけで水が出た筈なのに、モーセは不平の民を諫めるべきところを、その不満と怒りを神に向けてしまったのである。

もう一つ大きな問題は、

1コリント人への手紙10:4では「岩」=キリストだとしている。

モーセはキリストを打ったことになる。

象徴的に言えば、十字架のキリストに対して釘を打ちつけたのだ。

 

2、死ぬこともまた益である。

未達成の死は悔いが残ると言えばそうだが、仮にモーセが生き延びて約束の地での戦いに臨めば、120歳を超えたモーセにとっては限界がある。

だから、ここでモーセの生涯が終わるのは良いことなのである。

クリスチャンにとって死は敗北や挫折ではない。

死は苦からの開放と安息である。

だから、死ぬことも益なのである。

 

3、神の慰め(モーセへの優しさ)

マタイ17:1-5にキリストの栄光のお姿を拝見する栄誉をモーセは得ている。

約束の地カナンを見ることと、天国の平安やキリストの栄光を見ることを比べるなら、モーセにとって最終的な願いは後者であっただろう。

神はモーセに約束の地を見せることに勝る栄誉を与えて下さったのである。

 主は私にかかわるすべてのことを、

 成し遂げて下さいます。

 主よ。

 あなたの恵みはとこしえにあります。

 あなたの御手の技を捨てないでください。   詩篇138:8

 

モーセは今回で終わり。

次回からは「エステル記」が始まります。