十一月も半ばに近づくと「喪中はがき」が届く。
今日は小学校からの仲良しのO君から「弟が永眠しました」との葉書が届いたので、お悔やみの電話をかけた。
これは口実で、お互いに長く連絡が途絶えているので、元気にしているのか知りたかったのだ。
普段も用事がなかったら電話はしないけど。
彼はコロナの中でも元気そうだった。
たった一人の弟さんを亡くして辛かったようで、しばらく話を聞いた。
「また骨折ったんかいな、何してんねんな、気つけんかいな」と言われた。
仲良しの友達は元気でいて欲しい。
今日は私の寝室とお手洗いをヘルパーさんが来て掃除して下さった。
骨折以来、ごちゃごちゃしていたベッド周りが片付いて清潔になって嬉しい。
早く自分で掃除が出来る様になりたい。
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モーセは約束の地カナンを目前にして40年に亘る苦難の旅を終えようとしている。
死を迎えるのだ。
彼も夢見たであろう約束の地には入れない悔しさ、悲しさ。
聖書 申命記32:48-52
1、モーセが犯した罪
モーセの罪とは、
○ 神への信頼を裏切り、
○(民に)神を聖なる方としなかった(罪)である。
具体的に見る。
民数記20:2-12
「岩に命じ」→「岩を二度打った」11とある。
「岩に命じる」だけで水が出た筈なのに、モーセは不平の民を諫めるべきところを、その不満と怒りを神に向けてしまったのである。
もう一つ大きな問題は、
1コリント人への手紙10:4では「岩」=キリストだとしている。
モーセはキリストを打ったことになる。
象徴的に言えば、十字架のキリストに対して釘を打ちつけたのだ。
2、死ぬこともまた益である。
未達成の死は悔いが残ると言えばそうだが、仮にモーセが生き延びて約束の地での戦いに臨めば、120歳を超えたモーセにとっては限界がある。
だから、ここでモーセの生涯が終わるのは良いことなのである。
クリスチャンにとって死は敗北や挫折ではない。
死は苦からの開放と安息である。
だから、死ぬことも益なのである。
3、神の慰め(モーセへの優しさ)
マタイ17:1-5にキリストの栄光のお姿を拝見する栄誉をモーセは得ている。
約束の地カナンを見ることと、天国の平安やキリストの栄光を見ることを比べるなら、モーセにとって最終的な願いは後者であっただろう。
神はモーセに約束の地を見せることに勝る栄誉を与えて下さったのである。
主は私にかかわるすべてのことを、
成し遂げて下さいます。
主よ。
あなたの恵みはとこしえにあります。
あなたの御手の技を捨てないでください。 詩篇138:8
モーセは今回で終わり。
次回からは「エステル記」が始まります。