金の生る木 寒くていつもの春より蕾が硬い
最近、足元が覚束ない。
常に意識していれば良いのだけど、他に意識が行っている場合足元に注意が行かず、ちょっと危険なのである。
家の中で転けて怪我をする友人もいるし。
今、これは危険と思うのが、キッチンの流しやコンロの前に長く敷いてあるマット。
引っかかりそうになる。
これを取り払うことにした。
床に飛ぶ油や水その他諸々を受け止める役目をしているのだけど、洗濯はしないし、菌を培養しているマットとしか思えない。
「モップで絶えず拭いたらええやん」
「それともY口のおばちゃん方式でやるかやわ」と娘。
「Y口のおばちゃん方式って?」
「雑巾を床に置いて片足を乗せて左右に動かす」
「・・・・」
Y口のおばちゃんというのは、娘が幼い頃住み込みで家事を手伝ってくれたおばちゃんである。
娘が小学校4年生の時、私は長期入院することになった。
娘と夫が家に居て、留守番兼子守、それらの家事を任せるのは誰でも良いという訳にはいかなかった。
父が考えてくれて、長年会社の寮母をしていたY口のおばちゃんに白羽の矢を当てた。
おばちゃんは長く寮で賄いもして来て信用がある。
その頃すでに退職して、退職金と預金で古いアパートを買って食べていた。
色々用事もあっただろうけど、父の頼みは断れず我が家に来てくれた。
夫と娘の食事や、ピアノのお稽古の送り迎え、その他諸々の家事を全部やってくれた。
夫も娘もおばちゃんに懐いて私の留守の間の5ヶ月を辛抱してくれたのだった。
Y口のおばちゃんは夫に先立たれ一人娘も若くに事故で失い一人ぼっちだった。
弟や妹が居るけれど、ひとりぼっち。
1903年(明治36年)大阪市で生まれた。
コテコテの大阪弁を使っていた。
当時65歳ぐらいだった。
高級家政婦とは行かなくて、若い男の社員の面倒を見てきたから、上品な家事仕事ではない。
でも美味しい食事を作ってくれたし、娘にとっては懐かしいおばちゃんだった。
子供って、おばちゃんの母とは違う面白い些細なことを覚えているのだ。
私は退院してしばらくは家で養生をしていておばちゃんは自分の姪をしばらく家事の手伝いに来させた。
責任感というか、私への労りというか、心根の優しい女性で、我が家の生涯の友となったのである。
キッチンマットのことから突然おばちゃんを思い出した。
Y口のおばちゃん続く。