婦人聖書の集いより
今日の譬え話は馴染みのある話だが、疑問に思われ批判されてきた箇所でもある、
どう理解すれば良いか。
聖書 マタイ15:21-28
疑問1、異邦人が「犬」(26)に例えられているが蔑視ではないのか。
ここには蔑視の意識はない。なぜならイスラエルも「羊」でたとえられている。
どちらも家畜であり「犬」は外国人に対して語られる当時の慣用句である。
犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り囲み・・・・・ 詩篇22:16
疑問2、キリストの態度は民族的差別ではないのか。
イスラエル以外には遣わされていない」(24)は差別ではなく、アブラハムの時代からみ言葉を聞いてきたユダヤ民族に先ず御心を示す優先順位の問題。
疑問3、婦人の必死の願いに対して冷たい態度という批判
イエスは答えて「子供達のパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。26
それは「却下」ではなく以下の二つの意味が考えられる。
①「信仰のチャレンジ」
聖書を読むと、主は人の願いを聞きながら直ぐには答えないことが記されている。キリストの関心は常に人間の救いと信仰強化にあるが、人の求めが強すぎる時、目先の必要のために、真の解決が何かが分かっていない場合がある。
主はある程度「沈黙」(23)期間を通して、その願いが純化され真の必要を分からせる。
例:パウロの肉体の棘」の癒しの祈りには14年待たされた。(2コリント12:2)
②主がどの様なお方かを理解させる
もう一つの意図は、キリストへの正しい理解をさせるためであった。
カナン人である婦人が娘の癒しを求めて来たとき、み言葉の知識もなく、主を単に「霊能者」とみなしていた可能性は充分ある。
主は「イスラエルへの養い」の優先を示しご自分が聖書の示す「救い主」であることを暗に示す意味が含まれていたと考えられる。そうなると「却下」ではなく、ご自分が何者であるかを示すための言葉であったと理解される。
※そしてついに婦人の信仰を賞賛された。
「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように。」
すると、彼女の娘はその時から直った。28