a-dollのブログ

忘れたくない日々のあれこれの記録

生誕124歳

よく寝る。

寝坊して、お昼前にもう一度寝て、夕方少し寝て、夜は11時に寝る。

このところ寝てばかりなのに、起きたら耳が詰まってフラフラ。

出かけるのは無理なので、教会は休んでネットで礼拝をした。

音声の具合が悪く、スマホを耳元でくっつけて聴く。

これはこれで、集中して聞けて後藤牧師の説教の内容がよく分かった。

 

8月も終わりに近づいた。

 

今日 8月25日、母の生誕124年。

母が生まれたのは明治33年(西暦1900年)なので、分かりやすい。

石川県金沢出身の父と和歌山県根来出身の母の間に次女として生まれた。

父は早くに病で倒れ亡くなったので、母娘3人は貧しい暮らしを余儀なくされた。

 

姉が結婚した相手のお婿さんには弟が居た。

彼は商売を始めたばかりで年は22歳。

その男(私のお父さん)が、母に求婚したのだ。

大正12年に結婚した。

仲良し兄弟と仲良し姉妹が結婚した。

姉夫婦には女の子も産まれた。

 

どちらも幸福な家庭だったのだろう。

でも、ここでの運命は残酷だ。

姉と子供が亡くなってしまった。

明治大正昭和の初期は人は病で簡単に死んだ。

 

妹である母は姉の分も幸せになったのか、夫の事業は順調で、子供が次々生まれた。

長女C子姉ちゃんを筆頭に、長男が生まれ、続いて女の子4人が3年毎に生まれた。

私は5番目に産まれて、母は36歳になっていた。

当時としては高齢出産である。

しかも「また女の子や〜」とがっかりしたに違いない。

 

お産は家で、産婆さんが来て取り上げてもらった。

「子年に産まれて、ええ手相をしてはる、運の強いとうちゃんだす。

将来お嫁に出しはんのは勿体無い。

ご養子さん貰いはっらええわ〜家に3人も子年の人がいるのは栄えまっせ〜(祖母も子年だった)

女の子ばっかり続いて産まれて、がっかりしないように慰めてくれたのだろうか。

3年おいて母は妹を産んだのだが、6人とも健康で大きくなった。

大きくなっただけでなく、全員長命で、長女は98歳、長男は89歳まで生きた。

残る姉妹は94歳を筆頭に、4人とも認知症にもならず元気なのである。

 

母は、子供を6人とも失うことなく育て上げて、これという病気もせず、豊かに暮らしながら86歳まで生きた。

私は顔立ちも体質も母に似た。

お産だけは母に似なかったが、緑内障であるとか、天候が悪い日はしんどくなるとか、出不精なところも。

36年も経つと医学も常識も随分変わった。

母の歳を超えてしまったが、健康に育ててくれて、今も好きなことをして暮らしている。

 

 

今日のDOLL